『私達は、一緒よ』                  @代々木  Gallery YOYOGI 2010年 5月

              ■ 楽 園‐A

              ■ 楽 園‐@

              ■ 楽 園

【立体】塩ビ管、強化プラスティック、紙粘土 他

              ■ あなたはどこにいるの?

【平面】キャンバスにアクリル絵具

展 覧 会

【 口 上 「猿を造る」】
   幼稚園児の頃も小学生の頃も、それは1950年代後半から60年代前半だが、私は家の周辺で蝉の鳴く声を聞いたことがなかった。
 当時、東京23区内で最も緑の少なかった江東区は工業地域で、工場の煙突から排出される煤煙でくもる空の下、廃油やゴミで黒く淀む川を眺め、蝉の子が育たぬほど深く化学物質で汚染された土の上で遊びながら、草や木々の匂いと虫や動物の生命であふれかえる大自然に接したいという飢えを抱えつつ、私は育った。
 登下校の道では、中・小の工場の横につまれた機械部品、工業製品の陰に、何か動物がかくれて暮らしているのではないかと注意深く探しながら歩いた。(子供はそんなありそうもないことを考えてしまうのである。)
 ある時母親は、川に流されていた猿を拾って育てて、人間にしてやったのだ、それがお前だと笑いながら言った。
 その頃の親たちはよくそういう冗談を言って、子供をからかったのだ。「橋の下で拾ってきた」とか「たらいに入って流されてきた」など。
 「お前はもとは猿」もその一種だったのだが、そう言われた私は猿である自分を想像することに、人より劣った存在であるという屈辱感を味わうと共に確かな快感をも覚えた。
 それは外に探しても見つからなかった野生の命を、自分の想像の力の中に見つけ出したということだろうか。
 本物の自然と人間の頭のうちにだけある世界とは、同質のものでつながっているという直感が湧いた。
 その後しばらく、「人間に見えるが本当は猿」というイメージを反芻しながら、現実の生活の上に想像の世界を重ねて同時進行させる、二重生活の中で暮らした。
 中学生となると、自然への切ないほどの渇望も、猿との二重生活も遠いおぼろげなものとなり、替わって私の心を満たしたのは、これから現れるであろう、最愛の恋人との出会いだった。「その人」は今どこにいるのだろう?「その人」はなんという名前だろうか?と焦がれながら日々を重ねた。
 かなり時間を経た現在から眺めてみると、私の心の求めたものは一貫しておなじものだったようにも思われる。
 よく似た希求に従って、今も私は制作を続けている。